Moripedia
はじめての連載
2015年01月25日 21:52はじめての連載は、『マイレッスン』(全研本社)っていう、
今はなきオケイコ情報誌でやらせてもらった旅先からのレポ。1999年。
この月刊情報誌では、
フラメンコに陶芸に料理教室にボクサザイズ、メイクアップ教室にフシギな占いの館......
たぶん100を超えるおケイコを取材させてもらったんだけど、
東京を引き払い旅に出るや
読者コーナーの一角に旅エッセイを書かせてもらうことに。
手書きの原稿を旅先から
東京の担当編集者「つぶ」にエアメールで送りつけ、
また時には郵便局からFAXで送りつけ、
それをつぶが「ワープロ」でおこして(時にはリライトして?)入稿。
町の観光案内所でもらった地図とかで
封筒作ってさー。
デジカメなどない時代、
写真を現地で現像して同封、を毎回やるのも大変だから
手描きのへんなイラストとかくっつけて。↓
出だしが
「デリーでかっこいいインド男を発見!」
って、どんだけ自由な連載♪ ↓
あ、
気がついていただけましたか?
この「怒りのミカン」ってタイトルが私は何か好きでね。
現在の私の第2ブログのタイトル「怒りのミカン」は
これをそのまま拝借したというわけです。
「怒りのミカン、って
どうして思いついたの?」
とつぶにきいて、
この名画のパロディだと教えてもらったのはずっとあとのことだった。
かなり私好みのタイトルセンス♪
パロディでありながらおさまりがいいよ、つぶ!
ハンガリーかどっかの国の公衆電話から
ヒマ電話した私に
「なんか旅のこと書いて送ってよー」
と言ってくれたつぶ。
ありがとう!!
(あれっ、お礼を言うコーナーのつもりじゃなかったけども。。。)
フリーになったきっかけ
2015年01月25日 21:06会社員のライターからフリーになったきっかけは「投稿」です。
ハガキ職人です、FAX職人です。地味でしょう?
短大を卒業して「モノを書く仕事がしたい!」と思ったものの、
仕事やバイトの面接に落ち続け、住んでいた足立区西新井の激安アパートも
取り壊すから出ていけといわれて途方に暮れていた21歳の春。
(地味すぎるーー!)
コンビニで買ってきた『TVBros.』の読者ページに見覚えのある文章が。
あれっ?
それは、余った年賀状で同誌の懸賞(たぶん映画の試写会チケット)に応募した時に、
余白にちょこっと書いたテレビ番組評でした。でかでかと載っていた。
「自分の文章が活字になった!!!」
それで気を取り直してふたたび履歴書を書き続け、
何とか社員4人、1日13時間労働月給12万円の編集プロダクションに就職。
そこで若者向け情報誌の取材や原稿執筆をやりながら、
コソコソと『TVBros.』の読者コーナー“ぴぴぴくらぶ”(当時)に投稿FAXを送り続けたのがフリーになったきっかけ。
テレビ番組をあたりさわりなく解説するだけの雑誌とはまるで違う、
かといってただの悪口タブロイドとも一線を画している、
このオモシロ突っ込み雑誌は何なんだ!!!
テレビとは全然カンケーない特集も、人気雑誌なのにくっだらナイス♪
約2年間、会社員ライターをやりながらも、とにかく心は『TVBros.』。
編集に気を使ったつもりで
投稿のペンネームや文体を毎回変えて、かくれ常連となり、
毎号、採用されることだけを楽しみに生きていた我が青春時代。(もちろん彼氏なし)
だから会社を辞めて、「オーストラリアで1年間のワーキングホリデー」を決意した時も、
気がかりだったのは「ブロスに忘れられてしまうのではないか」、ということだけ。
「ライターさんなら、お仕事もぜひお願いしたいけど、1年間も海外へ行っちゃうんじゃあねぇ。。。。」
勇気を出して編集部に挨拶に行って、
当時の編集長にこう言ってもらえた時はどんなに嬉しかったことか。
「えっ? 本当ですか? じゃあ、やめます、やめます、ワーホリなんて! いいんです!」
アパート撤収はほぼ終わっていたけれど、急きょ出発中止。
また新たにアパートを探して、
オーストラリアへ行くチケットのかわりにワープロとFAXを買ったのでした。
それがフリーの物書きになった始まりです。1996年、23歳、けっこう昔だな~。